天幕
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Uberで初老の紳士が語ってくれた、人類を宇宙から隔てる天幕の話
アメリカという国はとにかく広い。どのくらい広いかというと、どこまでも広がる平原を見て、地球は平面であると確信する人が続出してしまい、地球平面協会なる団体ができてしまうほど広い。そんなわけで、快適に暮らしたければフリーウェイを65マイルで疾走できる自家用車は必需品なのだ。バスや地下鉄などのインフラもあるにはあるのだが、時間通りには来ることはほぼないし、ルートもかなり限られているから、一部の大都会を除いてあまり使い物にならない。
渡米当初、まだ自分の車を持っていなかったころは、よく移動に配車サービスのUberを使っていた。Uberの運転手には移民が多く、たまに気さくな人に当たると自分の生まれ育った国や街の話を聞かせてくれた。今思えば、それは小綺麗な大学のキャンパスに閉じこもりがちだった僕を、広い外の世界に繋げてくれる数少ない出入口の一つだった。
たった一年のうちに、さまざまな人の車に乗った。電話も繋がらないブータンの田舎の村に許嫁を置いてアメリカにやってきた青年のプリウス、東京には空飛ぶ車が走ってると信じていた南米出身のおじさんのシビック…… なぜか日本車が多かった。
中でも印象に残っているのは、年季の入ったカローラに乗った、アラブ人の初老の紳士だ。彼はすこしこもったアラビアなまりの英語で、26歳の僕に、空を覆う天幕の存在について教えてくれたのだった。
ーよぉ、ケダイ!寒い中待たせて悪かったな
ーいやいや、建物の中で待ってたから全然寒くなかったですよ。こちらこそ夜遅くにありがとう。
ーそれは良かった。〇〇バドミントンアカデミー……君はなんかここで勉強してるのかい?
ーいや、ただ楽しみでやってるだけだよ。バドミントン、知ってる?
ー知らない……なんかの楽器かい?
ーいやいや、スポーツだよ。ラケット使って、羽を打つんだ。
ーそうかそうか、スポーツなのか。いやいや、俺はギターをやっていてね。そこそこ地元じゃ評判の良かったバンドやってたんだ。まぁ俺らの血には音楽が流れてるからな。でもボーカルの女が辞めちまってね……バンドはあいにく休止中さ。
ーそうですか、それは残念ですね。早く新しいボーカル見つかると良いですね
ーまぁ今は仕事が落ち着いてるから、バンドの方も再開しても良いかもしれんな。
ーへぇ、なんのお仕事されてるんですか?
ー俺は大学時代は化学工学を専攻していたんだ。しばらく化学メーカーに勤めていたんだけど、もっと面白い仕事がしたくなって辞めちまって、その後はいくつか仕事を転々としてね……自慢じゃないが、一時期原子力の技術者をやっていたこともあるんだぜ。その後また紆余曲折あって、今はここで不動産のブローカーをしているっていうわけだ。
ーそうですか……でも色々な仕事ができるのは楽しそうですね
ー必ずしも楽しいことばかりではないさ……家庭を持つと、特にね。人生必ずしも自分が楽しければいいというわけではなくなるのさ。俺みたいに仕事を転々としていると、安定して稼ぐのは難しくてね……そうすると、女房が怒り出すわけだ。あんたが稼ぎがあると思うから結婚したのに、今月も赤字じゃないか!ってね。挙句の果てには裁判まで起こされっちまう…….笑えるだろ!
ーそれは大変でしたね……
ー言い訳ってわけじゃないんだが、俺だって稼いでないわけじゃないんだぜ。ただ仕事の性質上、どうしても収入には波があるんだ。そりゃ、ビジネスなんだから損失が出る月ってのもある。でも女っていうのにはその感覚が分からないんだな……まぁ君は若いから、そのうち解るようになるさ。行き先がスタンフォードだけど、君はそこの学生なのかい?
ーはい、そこで博士院生をやってます。
ーへぇ、博士。それは凄い。専攻は?
ー航空宇宙工学です。まぁ平たく言えば、人工衛星とかについて研究してます。
ーそうすると君はNASAにでも行くのか?
ーはい、そうですね。それも考えてます。
ーはぁ、それは災難だな…… 君を傷つけたいわけじゃないんだが、一つ教えてあげよう。君、残念ながら、NASAがやっていることは全て嘘っぱちなのさ。スペースシャトルも、アポロも。全て合成された映像なんだよ。
ーそうなんですか……?
ーそうさ、天には幕が張られていて、それを突き抜けることは絶対できないからね。人間というのは神の創造したこの地球で生きていくように、神様に宿命づけられているのさ。そこから脱出することは、絶対にできない。コーランっていう書物にそう書いてあるんだ。コーランを知ってるかい?
ーはい、イスラム教の聖典ですよね?あなたはイスラム教徒なんですか?
ーそうだ。俺はエジプト出身でね。
ーへぇ、いいですね。僕も一度行ってみたいです、エジプト。
ーはは、良い国だぞ。ここよりはちと汚いがな……話を戻そう。コーランは神様が書いた書物だ。すなわち、そこに書いてあることは全て真実なんだよ。だから、残念ながらNASAが嘘をついていることは、火を見るより明らかさ……驚いたかい?でも、君がすぐに信じられないのも無理はない。彼らはずいぶん巧妙にやっているからね。でも君も将来NASAに入れば、すぐに真実が分かるさ…… 中に入って実際にその目でみるのが一番手っ取り早い。
ーはぁ……
ーまあ、真実が分かったら俺に連絡してきてくれ。やっぱりあなたの言った通りでした!と……そしたら一緒に、朝まで飲み明かさそうじゃないか!
ーはい、その約束覚えておきます……
ーケダイ、驚かせて悪かったな。もっと簡単な質問をしよう。ケダイ、死は避けられると思うか?
ーいえ、それは絶対に無理です。
ーそうだ、分かってるじゃないか!死は絶対に避けられない。どんなに頭が良くても、お金持ちでも、偉くなっても……歴史がそれを証明している。なぜかって?それは神様が決めたことだからなんだ。全ての人間は神様の意志で誕生し、神様の意志で死ぬんだ。
ー誰が生まれるかも神様が決めるんですか?
ーそうだ。誰かが誕生するとき、神様がノートを作るんだ。ガマール、1965年9月16日生まれ…..とね。俺らは幸運にも神様に選ばれんだよ。そして神様が俺らに、魂を吹き込むんだ。そして死ぬ時、魂は抜けてゆく……
ーなるほど……
ーだから中絶なんていうのは、とんでもない神への反逆行為なんだよ。そんなことをしたら必ず天罰が下る。どうも最近の政治家、特にカリフォルニアのやつらは、それが分かっていないみたいだが。何度でも言う、とんでもない暴挙だよ、神に選ばれた命を消そうとするなんて……
ーはぁ……
ーケダイ、二つ目の質問だ。君は人が死ぬ瞬間というのをみたことはあるか?
ーいえ、ないです……いや、一度突然脳梗塞かなんかで電車で倒れた人なら見たことあります。
ーそいつの目はどうなってた?
ー正気がないというか……なんか焦点が定まってない感じでした。
ーそれは多分死んでるな……死んだ人間ってのは、目を見れば一瞬でわかる。死んだ瞬間、現世を生きるための目がまず使えなくなって、代わりに君の両肩の下に隠れてる二つ目のが開眼するんだ。死んだら目が変わり、天使が見えるようになるんだ。
ー天使?
ーそうだ。天使というのは、神の使いでね。案外そこら中にいるんだが、俺たちにはみることはできない。俺らの目は神様に細工をされているからね。でも、死んで魂が抜けると、天使が見えるようになるのさ。
ーそうなんですね?でも、それはなんのためなんですか?
ー来るべき復活の日のためだよ。
ー復活の日?
ーそう、いつかは分からないが、そう遠くない将来、神様がある日復活を宣言するんだ。そうしたら、骨だけになって地中に埋まっていた全ての人間が、一斉に復活するんだ。それは凄い数だ。そして一斉に、空へと昇っていくんだ……
ーそれは壮観ですね。
ーうん、そう、実に壮大だ。
ーで、その時にその目が必要なんですね。
ーそう、君、勘がいいな。まさしくそうだ。その復活の日に俺らを天まで導いてくれるのが、天使たちなのさ。だから天使が見える目が俺らにも備わっているのさ。
ー理解しました。
ー勘違いしてはいけないのは、天使と霊と魂は違うって話さ。よく、魂が見えるっていうやつがいるだろ?あれは嘘だな。奴らが見たのは、おそらく霊だ。魂は死んだら即昇天して、俺らには見えないからな…… 一方、霊というのはやっかいなやつらでな。まぁ、神様に逆らおうとする、悪い奴らだと思っておけばいい……そして強力な力を持っている。だから中には悪い人間がいて、その力を悪用しようとするんだ。いわゆる、黒魔術っていうやつさ。アフリカや南米ではよく使われてるが、手は出さない方が良い。
ーなるほど……
ーケダイ、最後の質問だ。君はお金を稼ぐことは悪いことだと思うか?
ー悪いことではないと思いますが……
ーああ、その通り、悪いことではない。だが、一つの真実というか本質を見誤ってはいけない。
ー本質?
ーああ、お金っていうのは便利なものさ。一見万能にさえ見える。だからなんだろうな、みんなお金を稼ぐために必死に働いて、蓄財する。金を稼ぐのは大変だ。だからみんな必死に蓄えた物に執着する……誰だって自分の持ち物を他人に盗られたら警察を呼ぶだろ?
ーそうですね……
ーでも残念ながら死んだら、生きてる間にせっせと蓄えたものは全て無に帰すのさ。どんなにお金を貯めても、良い家を買っても、偉くなっても、君が生前に築き上げたものは音を立てて崩れ去る。そして君が死ぬと全部、他人が根こそぎ奪ってゆくのさ……そう、例えば君の女房がね!不条理だろ?だからこそ、神様はコーランにこう記してるのさ…… 人に優しくして、善を尽くしなさいと。そうしたらお前のノートに、お前の徳を記しておいてあげるから、とね。そしてそのノートを見せれば、天国へと行けるんだ……分かるかい?
ーはあ、そうですね。確かに死んだら、何も後には残りませんよね。
ーうん、そうだ、無だ。本当に無なんだよ。賢い人でもそれに気がつかない人は多いが……それだけは覚えて帰ってほしいね。さて、着いたみたいだ…..ここで良いかい?ずいぶん綺麗なアパートだな。
ーはい、大丈夫です。ありがとう。
ーケダイ、今日は君に会えて幸せだった。君の大学院生活に幸多からんことを。博士課程、頑張ってくれ。
ーうん、ありがとう。あなたも良い夜をお過ごしください。
車を降りると、カリフォルニアの乾燥した空気の上に、満天の星空が広がっていた。僕は、天を覆う巨大な幕に想いを馳せた。神様が僕らを逃さないためにこしらえた、壮大な天幕……彼はそこに、神の守護と全てを包み込むような愛を見出していたのだろうか?だとするとその天幕をロケットで貫こうとする人間たちは、悪霊に取り憑かれた愚かな罪人たちなのだろうか?
あれから二年経って僕は今、NASAでインターンをしている。だから「真実」を知っている。残念ながら彼と再会して朝まで飲み明かすことはないであろうことも、知っている。
彼はかわいそうな陰謀論者なのだろうか?そうとも言えるのかもしれないが、僕も大差ない。僕だって自分に都合の良い世界を適当に外挿して、これが世界だと適当に早合点して、色んなことに目を背けながら生きている。多分僕だけではない。ある意味誰もが、何かしらの天幕で自分の世界を覆っている。そして彼は単に、天幕に守られた世界の中でみんなに幸せになってほしいだけなのだと思う。
天命を全うしたら何も残らないから、徳を積んでおけと彼は言っていた。だからその夜、信じる神様のいない僕は少しだけチップを弾むことにした。彼の家族が今夜、少しでも穏やかで幸せな夜を過ごせるように…..